21日の春分の日を境に、ようやく春らしくなってきました。このまま春一直線という感じでしょう。そうなると、桜も日本全国で開花し始め、お花見では羽目を外して楽しむ人も多いと思います。しかし、「酒は飲んでも飲まれるな」という言葉があるように、ほどほどにしましょう。
キャッチ&リリース、「クラムボン」ナビゲーターの藪下雄介です。
今回取り上げる音楽家は『アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン』です。
スクリャービンは1972年1月6日、ロシアのモスクワに生まれました。1882年、彼は10歳で陸軍幼年学校に入学しますが、肌に会わず、翌1883年からコニュスに本格的にピアノを習い、モスクワ音楽院に入学する準備を始めました。
陸軍学校に通っていた音楽家・・・自分の意志で陸軍学校に入学したというのだから、スゴイ・・・軍人になりたかったのですかねぇ?
モスクワ音楽院在学中に、彼は過度の練習から右手に運動麻痺を起こし、生涯その後遺症に苦しむことになります。(このことは彼の作風に生涯大きな影響を及ぼしており、彼のピアノ曲の左手が極めて技術的に難しいのはそのためなのです。)
1894年にベリャーエフというペテルブルグの裕福で進歩的な楽譜出版商が、スクリャービンのリサイタルを聞いて感激し、その後援者となりました。1897年にスクリャービンは家族とベリャーエフの反対を押し切って、ヴェーラ・イワノヴナと結婚しました。
皆が反対した理由は何だったのだろうか?真実は闇の中です。
1904年にスクリャービンは念願のヨーロッパ移住を実現します。以降、1910年に帰国するまでの6年間、彼はスイスを始めに、イタリア、フランス、ベルギー等、西ヨーロッパを転々としながら盛んな作曲活動を繰り広げました。まずスイスに居を構えたスクリャービンは、当初は妻子とともに生活していましたが、やがて愛人であるタチアーナ・シュレーツェルとイタリアに行き、そこで生活を始めます。
反対を押し切って結婚した奥さんを置き去りにして、愛人と暮らし始めちゃいました。「それはそれ、これはこれ」ということでしょう。
その後、パリでのコンサート・シリーズ「ロシア・シーズン」において、「歴史的大コンサート グリンカからスクリャービンまで」というキャッチフレーズが使われたことからも明らかなように、スクリャービンの作曲家としての地位はようやく固まりつつありました。
1910年、スクリャービンはタチアーナ・シュレーツェルや彼女との間に出来た子供たちを連れてモスクワに帰国しました。
そして1915年4月27日、上唇に出来た腫れ物が化膿して敗血症を引き起こし、高熱と激痛の最中、スクリャービンは急死しました。享年43歳でした。