今年も残り一ヶ月を切りましたねェ~、12月といえばクリスマス、大掃除、大晦日、年越しライヴ等々あると思いますが、どれも12月後半のイベント(?)であり、まだまだ先と言ってもいいでしょう。皆さんは2006年最後の月、どのように過ごす予定ですか?
スケジュール表に空欄がありません、「クラムボン」ナビゲーターの藪下雄介です。
今回は『ジョルジュ・ビゼー』をとりあげます。なんと4回連続でフランス生まれの音楽家を取り上げることになってしまいました。自分でもびっくりッ!
ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日にフランスのパリ近郊のモンマルトルで生まれました。父のアドルフは声楽教師で、母のエメは音楽家の家系をひくピアノ奏者でした。この両親から、ビゼーは4歳の時から楽譜の読み方を教えられたそうです。そういった家庭環境と教育、そして抜群の記憶力を持っていたビゼーは、幼少から音楽的才能を示し、9歳の時(1848年10月9日)には、パリ音学院への特例入学が認められました。
ここまでをみると、ビゼーの将来はもう約束されたも同然ッ!スター街道まっしぐらァァーッ!!って感じだね。
1857年、19歳のときにカンタータ『クロヴィスとクロチルド』でローマ大賞を獲得し、3年間ローマに留学。また、同じ年、オッフェンバックの企画したコンクールの応募下「ミラクル博士」が第1席となりました。ローマ留学中のビゼーは、奨学金を受ける代わりに義務として課された次作の作曲に悩まされ、あまり快適に過ごしたわけではなかったようです。
強制的に作曲させられるのが嫌いだったようで・・・プライドの高い人だったのだろうか?
1860年にパリに戻ったビゼーは奨学金の受給も終わり、かなり苦しい生活を余儀なくされました。こんな中で生まれたのが、オペラ「真珠採り(1863年)」と「美しいパース(ペルト)の娘」です。この2つの作品、特に前者はビゼーの出世作とされています。
1861年にはリストの新作(リストは、『この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ』と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけてリストを驚かせました。この時、リストは『私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう』といってビゼーを賞賛しました。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになろうとはしなかったのです。
自分にはピアニストとしての才能があるとわかっていて、その道を進もうとはしなかった。あえて苦難の道を選ぶ。「夢にときめけ 明日にきらめけ」って誰か言っていたような気がする。
パリでの暮らしは楽ではなかったばかりか、生来の病弱で、心臓リュウマチの発作に度々悩まされました。そんな中で、1872年に、オペラ「ジャミレ」やドーデの芝居「アルルの女」の付随音楽(27曲)を作曲しました。また、1873年から翌年にかけて、メリメの原作によるオペラ「カルメン」をオペラ・コミック座の上演用に作曲しました。この作品の初演は、いくつかのトラブル(ヒロインが女性労働者だったことなど)もあり、結局は失敗に終わりました。
スタートはロケットダッシュで快調だったのに、だんだんと失速していく。ピアニストとして生きていれば、きっともっと楽な暮らし、そして名声と富を得られていたのかも。
その後、ビゼーは静養の意味もあってパリ郊外に移り住みましたが、ずっと持病のリューマチに苦しんで、「カルメン」の初演3ヶ月後、1775年6月3日に心臓発作を起こして永眠しました。この日は6回目の結婚記念日だったそうです。享年36歳でした。ビゼーの死後、彼の最後の作品である「カルメン」は、もともとはセリフのあるオペラ・コミック形式だったのですが、親友のエルネスト・ギローにより、レチタティーヴォのあるグランド・オペラに改編して上演され、大成功をおさめました。
生前には成功を収めることが出来ませんでしたが、オペラ作家として生きることができたビゼーは、きっと幸せだったと思います。