早いものでなんと今回が10回目の「クラムボン」となりましたッ!!特に10回目を迎えたからと言って何かやるわけじゃないのですけれど・・・切りが良いということでねッ!「今年中に取り上げないで、いつやるんだぁァァーッ!」と言い続けて早2ヶ月、「クラムボン」ナビゲーターの藪下雄介です。
記念すべき10回目の今回は、今年が生誕250周年『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト』です。モーツァルトは、今回と次回の2回に分けて取り上げます。
<250周年>、クラシック好きな人には当たり前のことだと思いますが、クラシックに興味がない人でも「今年はやけにモーツァルトの名前を聞くなぁ~」と思っていた人も多いんじゃないでしょうか?生誕250周年だったんです。
1756年1月27日、モーツァルトはオーストリアのカトリックの町ザルツブルグに生まれます。
天才モーツァルトもやはり音楽の本場、ヨーロッパに生まれていたんです。
モーツァルトには5歳上の姉ナンネルがいて、父親であるレオポルトは彼女に小さいときからクラヴィーア(ピアノの前身)の指導をしていました。ナンネルの弾くクラヴィーアをいつも聴いていた幼いモーツァルトはたちまち旋律を覚えてしまい、1年あまりもたつとクラヴィーアだけでなくヴァイオリンも弾けるようになっていました。5歳になったときには初めて<<クラヴィーアのためのアンダンテ>>ハ長調という曲も作曲しています。
5歳で作曲をしてしまうとは・・・自分が5歳の時なんてドレミも理解していなかった気がする。
レオポルトは天才の子を持つ父親としての使命に目覚め、広くこの才能を人々に知らせるべきだと考え、二人の子供を連れて演奏旅行に出ることにしました。1762年、モーツァルトが初めて御前演奏をしたのはミュンヘンでした。ここで確かな手応えを得たレオポルトは音楽の都ウィーンへと旅立ちます。これがモーツァルト一家の大演奏旅行の始まりとなりました。
父親であるレオポルトが使命に目覚めなかったから、どーなっていたでしょう?考えるまでもないですね。音楽史にモーツァルトの名前は残らなかったでしょう。
ウィーンには神童の噂はすでに伝わっていました。ウィーンでの成功はレオポルトに次なる長期演奏旅行の計画を立てさせました。1763年6月9日から始まったこの旅は、ザルツブルグの西方をぐるりと回るもので、一家が故郷に戻ったのは1766年11月29日のことでした。実に3年半にわたる旅でした。
「幼少の思い出は?」とモーツァルトに聞いたら「ヨーロッパ中を旅してた」と即答されること間違いなしッ!
モーツァルトは生涯旅を続け、その日数は人生の3分の1というウエイトを占めています。旅の空のもと、モーツァルトは作品を次々と生み出していきます。14歳の時にバチカンのシスティーナ礼拝堂で聴いたグレゴリオ・アレグリの<<ミゼレーレ>>を、たった一度聴いただけで楽譜に書き替えてしまったという逸話は有名です。
長い旅行からザルツブルグに帰ったモーツァルトは、宮廷のオルガニストとして一度は落ちつきますが、音楽に理解を示さないコロレード司祭と折り合わず、ハイドンと知り合ったウィーンや、パリなどで就職活動を進めます。21歳になったモーツァルトは母とともに職探しの旅に出ますが、最終目的地であるパリに着くと、旅の疲れが出た母が急死してしまいます。旅の途中では失恋し、母も亡くしてしまったモーツァルトは深い悲しみにくれながら故郷へと戻るのでした。
旅の間、ずーっと父親と手紙のやりとりをしていたモーツァルト。生涯の手紙の数(送受)はなんと1000通を超えています。まめな人だったんだろう。
故郷に戻ってきたものの結局、司祭との関係は決裂し解雇処分となります。1781年、21歳の春のことでした。
続きは、また次回ッ!